長くて退屈です…
すんません。 Il Giardno Armonicoの演奏会に行って来た。 このグループは90年代の半ばに、リコーダーのGiovanni Antoniniを中心に組まれたグループで、当時まだドイツの音大で学生をしていた私たちは、初めてこのグループを聞いたときに、その時に荒く激しい演奏振りに大きな衝撃を受けたのを覚えている。 さて、かの夜のテーマは、ヴェネチアで!という題目が歌われていた。 プログラムは以下 Dario Castello Sonata decimaquinta a quattro Tarquino Merula Canzone a quattro 《La Lusignola》 Ciaccona per due violini e basso continuo Giovanni Legrenzi Sonata seconda a quattro Antonio Vivaldi Concerto per Flautino, Archi e B.c. in C RV444 (聞いたのはここまでね) ヴェネチアは、およそ13世紀あたりから、その立地条件を基盤に商業的に発展し、何世紀にも渡って貿易さらには政治、文化の中心となっていった。 音楽に関してもそれは同様で、サンマルコ寺院の音楽マエストロとなれば、15世紀から栄えていた近隣のマントヴァ、フェッラーラに劣らない職となっていた。 Gabrieli に続いて、Monteverdi、 Schütz、 この晩演奏されたLegrenzi、 Galuppiらがこの地位についた。 難しいことは、じっくりプログラムを読むなり、音楽辞典で調べるなりしていただくが、全体的な印象としては、私は何年ぶりにに聞いたGiardinoにちょっと失望してしまった。 デビュー当時、あまりにもはまり込んでしまったので、続々とリリースされたCDを買って聞きこなしたが、いつしかGiardinoを聞けなくなってしまったという事実がある。 そもそも、エポックをどこからどこまでと範囲付けするのは、不可能なので曖昧にしか示唆できないが、後期ルネッサンスにあたる16世紀後半あたりから、徐々に音楽の奏法作曲法、共に大きな変化を迎えることになる。今までスコラ学派に従って、厳しく作曲法が決められていたのだが、ポリフォニー音楽が生まれ、世俗音楽が盛んになるにつれ、一人称で愛や死などの日常について、母語で歌われることが多くなる。モンテベルディの時代のあとすぐに、Affektenlehreという情感奏法のようなものが非常に研究され盛んになった。 これは、感情的な旋律を感情的に演奏するだけでなく、「聴衆自身の感情を揺さぶる」ことが目的という、非常に新しい試みであった。 ここでは、驚くようなコントラストが強調され、明と暗、強と弱などが、様々な手法を用いて強調され、しばしば聴衆は外からやってくる感情の波に驚かされるということが起こった。 今まで、「主観」という観念のまったくなかった人々に、私は悲しい、私は嬉といった一般的な情感が、マドリガルなどの世俗音楽を通して歌われるようになった後、このように個人としての人間の情感に触れる旋律をそれを揺さぶる形で表現、演奏されるというのは、当時の人々にとって、音楽というもののあり方がまったく変わってしまうほどの効果をもたらしたのは想像に難くない。 このような、背景の中で、今回のコンサートのプログラムは作曲されたと見てよいだろう。 Giardinoの一人一人のテクニックは、大変素晴らしいものがあり、それだけでなく、個々の音楽性も非常に高いレベルを持っている。音楽性を位置づけるものに、その即興性を欠かすことは出来ない。そもそも、プログラムにも16世紀に真の器楽曲が生まれた、と書いてあったが、それ以前にももちろん器楽曲はあったわけで、ただそれは殆ど弾き伝えによって聞き覚えられた旋律が演奏されることが殆どであった。さらに、管弦楽の演奏したものは、オルガンなどの鍵盤楽器に代わるもので、時に、その旋律は声楽によって演奏されることも多くあった。 それが、15世紀にGutenbergの印刷技術が発明され、それが徐々に広まったことにより、いち早くベネチアにはPetrucciによって出版業が生まれた。Petrucciが初期に出版した数々の楽譜には、多くのベネチアの作曲家が含まれている。 二曲目のMerulaのCanzone a quattroは、Canzoni a quattro voci per suonare ongi sorte dei strumenti musicaliと表記されているのを見てもわかるように、どんな種類の楽器で演奏されても構わないというものだった。 当時は、器楽曲の観念が非常に流動的で、リュートなどの楽器を見ても、一つの楽器で、和声、旋律、走句、さらには対位法まで演奏することが可能であり、歌を伴奏したり、独奏、合奏でも活躍することが出来るというチェンバロのような万能性を持っていた。 このような自由な構成のなかで、器楽曲における即興は非常に重要であり、時に楽譜にその装飾音符がすべて記されていたり、時には、重要な旋律以外には、一切即興メロディーの記されていないものもあった。この即興演奏の訓練が、音楽家にとってその音楽性と技巧を決定的なものにする大きな意味を持っていたといえるだろう。 その観点から見ても、Giardinoのメンバーのひとリ一人が、当時の演奏法を再生できるような高い技巧を身につけていることには間違えない。 それでも、なぜ彼らの演奏が聴けなくなったのだろうか。 バロックの研究をしていると、このAffektenkehreというのは厄介なもので、一つの演奏方法として認められていたにもかかわらず、音楽理論的にはしっかりした裏づけが解明されているわけではなく、必ずしも奏法、形式としての位置が高いとは言えない。さらに、情感を揺さぶることは、真に芸術的、つまり魂を伴ったような音楽をしなくても、いわば一つのプログラムとしてどの楽曲、奏法にも取り込み、効果として機能させることが可能だと仮定することさえ出来る。 私の個人的な印象では、学生時代のショック以来、長年Giardinoは、この魂を伴ったような、深い次元での音楽を堪能できるグループとして映っていたのだが、何回も何回も繰り返しCDを聞いていくうちに、私はもしかしたらAffekt、つまり言い換えれば類似言語であるEffekt(効果)にゆすぶられ続けているのかもしれないという疑問がわいて来たのだ。 Monteverdiの後期の楽曲を聴いてもわかるが、感情を揺さぶる作曲法、さらには演奏法の効果というのは、一見その深さから、真性なのか、それとも効果なのかを判断する境界線が非常に曖昧である。 例えばマドリガルなどでは、死、苦しみ、痛み、涙などの言葉に伴う旋律は、すべて不協和音(Disonanz)によって非常に不安定で、もの悲しい旋律が奏でられている。それをコントラストの非常に強い奏法で演奏されると、まるでその物語の中にいるのかというような状況を当時の人々は味わったに違いないだろう。 あくまでも、その完璧に近い技巧に重ね、素晴らしく滑らかな即興性で奏でられるGiardinoの織り成す音の世界は、効果以上のものである。しかし、そのあとに残るものは何か、そういう質問を投げかけた時に、このような楽曲を演奏するときの難しさがにじみ出てくるような気がしてならない。 無駄話ばかりになってしまう。 とりあえず、ローマ楽派が、法王の下で相変わらず厳格な宗教色の強い楽曲を生み出していたのと対照的に、ヴェネチア楽派は、豪華絢爛、華々しい音楽を多く生み出した。ヴェネチアという世界の扉でもあるこの街は、後にイタリア共和国が建国された当時も、最後までヴェネチア王国であっただけあり、当時より、非常に独自の色を持った街だったのだ。 第一部は、初期バロックに活躍したCastello、Merula、Buonamente、Legrenziが演奏され、休憩前はVivaldiのFlautinoのための協奏曲であた。 バロック好きには。かなりたまらない作曲家たちだが、普通はあまりなじみのない名前ではないだろうか。 全体的に、「効果」の目立つ彼らの演奏は、前述したとおり知っていたわけだが、今回は、いささかホールでの演奏に限界を感じた。 フィルハーモニーの室内楽ホールの音響は、極めてよいほうである。それでも、私は10ユーロ節約してしまったために、二階の左側の席になってしまい、舞台からはかなり上になってしまった。まして、Merulaの一曲目は、教会もしくは室内(per chiesa e camera)でという条件付である。 やはり、古楽器の演奏では、音が飛散しすぎるし、演奏者が豆粒では、楽しみも半分である。目から入る刺激も、効果の一つである以上、特別な動きやジェスチャーが、実際に聞こえている音以上の意味合いをもってしまうこともあるが、バロックにおいて、当時少なくとも演奏者が豆粒ということはありえなかった。すでに、席に着いたときに、不満が募った。 弦楽器の自由巧みな演奏は、非常に伸びやかで素晴らしかった。個人的には、第二バイオリンBianchiの音色のほうが好きだが、これは楽器による差だろうか。 チェンバロ、チェロに至っては、もうちょっとバスブースト的な効果を期待してしまった。即興で見せる場も少なく、コンティヌオ群のモーターとしての威力を見せ付けて欲しいと期待したのは、私だけだったろうか。 しかし、Legrenziはかなり華麗な音楽を作曲しているが、その他は、やはり楽曲としてみても、ややまだ未熟である。 それは、休憩前に演奏された、ヴィヴァルディを聞けば、その約80年の間に、どれだけ器楽曲が発展したか聞き取ることが出来る。 と、同時に、やはりヴィヴァルディは天才だと、改めて思い知らされる。 AntoniniのFlautinoには、実のところ、失望した。あれで、本当に聴衆はすごいと思ったのだろうか。 私は、長いこと聞き続けて、彼が世界でも一二を争う、リコーダー奏者だということは十重に承知している。だからこそかけるのだが、今回のコンサートの第一部の演奏は、まったく良くなかった。まず技巧がかなりドイツ語で言えばunsauber、きれいに仕上げられておらず、かなり雑な印象を受ける。ヴィヴァルディはきらびやかで激しい旋律が長く続くことも多いので、それを吹ききるだけで、かなりすごいという印象を与えることが出来るが、耳を持って聞くと、やはりばっちり決まっていない雑な部分が聞こえてしまうと、ちょっとがっかりするのだ。 さらに、私はこれは様々な演奏家を見て、たびたび思うことなのだが、ソロを吹きながら、足踏みするのはかなりいただけない。あれは、フレーズの緊張が高まり、ある目的の音に達した瞬間に、突然弛緩状態になるので、ごく自然の現象といえばそうなのだが、やはりあれが効果の一つとして、その激しい奏法として印象付けられるのはどうかと思う。ファナティックな姿が売りの彼であるが、やはりきついフレーズが終わるごとに、片足をパン、パン、と鳴らすのは、私は好きではない。 あくまでも個人的に。昔は、一緒になって足を踏み鳴らすほど興奮したものだが、取り付かれた状態では、芸術は決して崇高なものになりえない、ということがなんとなく見えてきたあたりから、ファナティックでありつつ、それをいかにインテンシブにおさえて崇高にするかという課題の解決を私は求めているのかも知れない。 むろん、このベネチア楽派の楽曲でそれをやるのは、スタイル的にも間違っているという声もありそうだが、私は、Effektが前面に出て、本質に近づけない芸術はなんでも好きではない。 実は、なんとも勝手な話だが、休憩で帰宅してしまった。 結局、新し物が何も得られなかったということと、あまりにもプログラムと演奏環境が合わず(私の席がまずかったのだ)、ちょっと退屈気味になったので、というか、それでも観客が興奮状態なのに、なんとなくちょっとつまらなくなって、出てきてしまった。 まったく、私はいつものように、勝手な行動をして勝手なことを言いまくっている。 しかし、ヴィヴァルディの精密さは、練習や高度な技術で表現しきれるものではない。 そこには、やはり幾ばくかの愛がなくては伝わらないものだ。作曲家をこよなく尊敬し、その音楽をこよなく愛することから本当のファナティック性は生まれる。演奏家が主役であると聴衆も期待している間は、やはり素晴らしい効果のあとにのこるプラスアルファを得ることはなかなか難しい。 もちろん、このような素晴らしい演奏会はたくさんあるのだが、Giardinoのファンは、結構効果に侵され、毒されている人たちも多い。そうやってバロックという秘境にどんどんはまっていくのだから大いに結構なことであるが、Giardinoを卒業する時というのもあるのかもしれない。そして、私はそのときが自分にとっくに来ていたことが悲しい。 なぜなら、本来、わたしと同じ世代、しかも私の知人でもあるGiovanniたちのグループに、私が卒業してしまうことのない様に、どんどん深い次元へとその能力を深め伸ばしていって欲しいのである。それには、聴衆の期待とは別の次元で活動することが必要であり、今やビッグスターの彼らには、大きなコマーシャリズムの波にのりつつ、今更そんなことは出来ないのだろうと、想像できる。それが少々悲しいのだ。 フレッシュだった、ショッキングだった彼らも、40代。こなれたプロ以上の、新しい境地を見せて欲しかった。
by momidori
| 2008-02-29 08:37
| Musik
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